アユタヤ王朝(3)

アユタヤ王朝(3)

前回に引き続きまして、アユタヤ王朝についてお話していきましょう。
アユタヤには日本人町が存在していたというお話の続きとなります。

 

日本人町には、大きい港が建設されていました。
このことから日本人の貿易量がかなり多く、栄えていたと考えられます。
日本人村にはキリシタンもおりましたがこのキリシタンは、幕府の禁教により逃れてきたと考えられております。
日本での禁教は250年にわたり行われ、キリシタンへ迫害や殉教を迫るなど、キリシタンを徹底的に追放しておりました。
そこから逃れて日本人村へと行き着いた子ども々はアユタヤにて迫害を受けることなく暮らしていたようです。

 

日本人町はこのような人々の構成により、次第に力を増していきました。
しかし、この勢力が増したことにより、のちにアユタヤ君主の目についてしまうこととなるのです。
これ以上日本人勢力が増すことを恐れた君主は、王室のみに貿易させるように決定してしまいます。
その後1630年には、謀反の動きがあるということで日本人町は焼き払われ、そこで暮らしていた住民は虐殺されるという悲劇が起きることとなったのでした。
これによって日本人の軍事、政治勢力は完全に失われてしまいました。
その後、1632年焼き討ちを逃れていた日本人400人程度が、日本人町を再興し18世紀初めまでは存続しました。
しかし、次第にタイ族に同化していき最終的には自然消滅という形で姿を消したようです。
アユタヤ郊外チャオプラヤー川の近くには、当時を伝える日本人町跡地があり、公園となっておりますがここには記念碑もあるとのことです。

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