アユタヤ王朝(2)
前回に引き続きましてアユタヤ王朝についてのお話をしていきましょう。
アユタヤはクメール人によって建設されました。
クメール人の特徴としては、唇は厚く目の色は私たち日本人のように黒く、髪の毛はくせ毛で皮膚は銅のような色でした。
身長は165センチとやや低めで、性格は温和だったようです。
ほとんどの人々は農業により暮らしておりましたので、お米を主食とし魚が好物であったと言われています。
私たち日本人とどことなく似ているように感じませんか?
アユタヤは別名アヨーダヤーとも呼ばれ、13世紀から14世紀前半まで高度な文化を保持していたようです。
近くには、ロッブリー川、チャオプラヤー川、パーサック川がありましたので貿易も行われておりました。
アユタヤには1606年、日本使節が渡った記録がありこのとき徳川家康の書を携えていきまして、このあとアユタヤからも日本に向けて貿易船が数多く来航しました。
アユタヤの城外には日本人町が作られ最盛期には1000人から1500人もの日本人が暮らしていたようです。
日本の戦国時代(関ヶ原の戦いや大阪の役の後)に主君を失った者たちが流れてきたようで、アユタヤにとっても経験豊富な日本人の兵力は魅力的だったようで積極的に雇い入れていたようです。
これによりアユタヤは、政治的にも大きな力を持つこととなりました。
この町には、浪人や貿易をする者やキリシタンや彼らの配偶者や使用人などで構成されていました。